本当の「責任感」ってわかります?

今年は文字生活を復活させようかと思う次第…
書いて表現することの楽しさ、しばらく遠ざかっていました

なぜ遠ざかってしまった…?

 

うーむ…

 

2019年から遠ざかっていたということは…

 

まあ、いっかー

 

2020~2021年は、私自身は腰をぶっ壊してしまっておりました

手術して腰にチタン製のボルトが入っている次第でして…

世の中的には、感染症が猛流行

 

全世界が健康と公衆衛生に関して考えることを求められた2年間

今ではそれが当たり前になった世の中になっている~と言いたいとこだけれど、

どうやらそうもならない部分もあるようで

 

これって多様化?

いや、違うよね~

 

反対方向を向く要素もあってこそ、多くが「感じる」→「考える」ので

必要なものなんだろう

 

この全宇宙において、同じものなんて存在しないし、

そもそも「同じ」なんことでカテゴライズすること自体がナンセンス

 

けれど、「流れ」というものについては視線を向けること

これはあっていいんじゃないだろうか

「流れ」に同調するのか、拮抗するのか、そこは自由意志

 

 

我々の世界では「責任感」という言葉があり、

また「責任感」を持つことを求められ、持つ者は評価される

宇宙では「責任感」って存在するんだろうか

高次元的世界の中では「責任感」というものは、どのようにして扱われているのだろうか

 

地球の人間をサポートしようとしている宇宙人たちがいるということだけれど、

この「責任感」については、宇宙的にはどう捉えているのかを質問してみたい

 

さらに、その上に存在する宇宙意識(神とか、ワンネスとか)にも

「責任感」って、どうしてんですかーーーーーーーーーーー?

って、ずずずいーーーっと質問してみたい


私は、この地球の人間界において「責任感のある人」と認識されていて、

それが自分では誇りだと思えることの方が多い

けれど、責任感は同時に縛り感があって、窮屈だとも感じている

物質的容器(肉体)に入っていて、物質がまだまだメインであるこの人間界で生きる以上、

責任感というものを持っている方が、何かと人間関係はうまく行きやすい

けれど、

責任感というものを利用して、

そこに必要以上の負荷をかけようとして

意識的にも無意識的にも作用してくるものが多数存在するこの世の中

 

それって、どうなんでしょ?

 

責任を持つ

責任をとる

 

自分で自分の責任を持つことが、各個人で出来たならば、

責任を持つってことは、非常に賞讃に値することなのだけれど、

多くの場合、「依存心」「依頼心」「自己肯定感の低さ」を自分以外の人に預けることで、

自分の責任感を浮き出すようにしていると感じられてならない

 

 

 

どうでしょ?

どう思います?

 

 

列車に乗って~

いつの間にやら2020年が半分終わってしまっていました

後半戦スタートしてますね。

 

私はと言えば…

自分の体調管理に明け暮れる2020年です。

 

実は、腰椎の手術をしまして…。

6月に手術して、7月に退院して、現在自宅療養中。

 

まあ、このことをわざわざ文章にする必要もないか~と思っています。

いつか書きたくなったら、この時のことを書きます。

が、特別何か不思議体験があったわけでもないので、単なるメモになるでしょう~。

 

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時間の流れが非常に速くなっています。

今までに経験したことのないぐらいのターボ感があります。

1日の24時間も飛ぶように過ぎていきます。

これは年齢によるものではありません。

1日の成すべきことが多いとか少ないとかの話でもありません。

そういう世界に私たちは突入しているのです。

 

 

 

私たちはその昔、とても穏やかでゆっくりとした時間と空間の中で暮らしていました。

歴史を振り返ると、『時を楽しむ』ような出来事が多々存在します。

四季の恵みを手に取って確かめる余裕がありました。

お祭りとかね。

 

 

けれど、今は、時の流れに漂えるような感じではありません。

時というものの概念が薄れていき、『今、在る』ということが日常のスタンダードとなってきています。

 

 

新幹線に乗ると、窓の外の景色は飛ぶように過ぎていっているけれど、

乗客である人間までもが、新幹線の車両の中で高速で動いているわけではありません。

まったく違うスピードで、各自の好きなことをしています。

寝ていたり、本を読んでいたり、食事をしていたり、誰かと会話していたり…。

外からすると、乗客は時の流れに逆らって、まるで止まっているかのように見えることでしょう。

 

 

このような感覚を、現在地球に住んでいる全人類が感じているかと言えば、そうではありません。

相変わらず時の流れを感じて、忙しく動いている人もいるでしょう。

そう、新幹線に乗っている人と、乗っていない人とではスピードが違います。

さらに言えば、新幹線の中と外では空気感も違うでしょう。

 

 

これば、時の流れを否定するという安易なものではありません。

『新幹線に乗ること』を推奨しているわけではありません。

そういう時代であるということを認識することは必要かもしれませんが、認識するかしないかも自由意志です。

すべては自由意志のもとに尊重される世界で、それが各生命体の望む日常となります。

 

 

あなたは、どんな『今、在る』を望みますか?

 

 

私の場合、例えるならば…

 

シンプルだけれど居心地と乗り心地のよい列車に乗って、

素晴らしい景観と、心地よいスピードから生まれる風を感じ、

その風に乗ってくる爽やかな自然の香りを感じながら、

自分の望むところで途中下車し、現地をちょいと楽しみながら、また列車に乗って旅したい。

列車には、大好きな人たちが乗っていて、

一緒におしゃべりしたり、美味しいもの食べたり飲んだり、窓から見た景色に感動したり。

たまにトンネルがあるかもしれないけれど、

トンネル通過中は大好きな仲間と懐中電灯片手に列車内を探検してみたり…。

 

…やがて、列車は終着駅に着くのだけれど、

終着駅に着いた頃には、皆はもう大満足の満面の笑顔で、

「またね!」と言いあいながら、それぞれの道に進んでいく。

 

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準備された未来、予測できる未来、仕組まれた未来というものは、もう随分前から存在しない世の中になっています。

そうでなくては未来を紡げないような時代もありました。

けれど、もうそうではない世界に私たちは存在しています。

 

『未来』 のために、『今、在る』のではなく

『今、在る』の連続が、『未来』になっていくのです。

この意味を肌感覚で理解できると、魂の成長につながっていきます。